個人と集団

国、社会というのは、言葉や数字の上ではかたちあるもののように扱われるものの、目には見えないですよね。社会を構成しているひとりひとりとは会話できても、社会そのものとは話もできない。国も同じ。おそらくは個々人の意識の和、または多数派の意見というものがその集団の方向性として現れてくるんだと思うのですが、どうにも捉えようがない。捉えようがない以上に、変えようがない。
別に「景気ってどうしたらよくなるんだろうね」という話をしたいわけではなくて、「みんなこうやってるから」「今までこうしてきたから」などなど、なんとなくでやっている習慣や規則ってどうやったら変えられるんだろう、という話です。かつてはそれでうまくいっていた、またはそうしないと破綻したというようなルールだったのかもしれませんが、外側の人間から見るとただの不合理でしかないようなルールがそこここにあります。
でもルールはそれでもルールとして、人々を動かすために一応は機能していて、それがなくなってしまうとひどいことになるんだろうなあというのも想像がつきます。急には変えられないから、少しずつ変えるしかない。それってものすごい労力のいることですし、なにより意志が必要です。歯をギリギリ噛み締めながら、グッと我慢して進む。そんなことができるためには、よほどの理由が自分の中にないといけません。
いやいや、これもきっと嘘ですね。理由があるから行動する、そんな単純な仕組みで人が動くとは限らないことくらい、28年も生きていればわかります。まだまだ勉強が足りないようです。