「高み」

今日、堀江貴文の『君がオヤジになる前に』を読みました。もともとホリエモンは好きでも嫌いでもありませんでしたが、これを読んでも好きにも嫌いにもなりませんでした。ただひとこと、「自分とはあまりに違う」とだけは思いましたが。

君がオヤジになる前に

君がオヤジになる前に

本文の至る所に「上を目指す」「高みに登る」「自分と同じステージ」などなどの表現が出てきて、何かよくわかりませんが上のほうを見てるみたいです。この感覚が僕にはわからない。金はあったらいいと思うし(毎日言ってますね)、女性はかわいい方がいいと思いますが、それが「上」であり「必死になって追い求めるもの」と思ったことはない。
彼は「上」を死ぬ気で、そして全速力で追い求めることが生きることだという強い信念に貫かれているような人間で、それはそれで清々しい気がします。きっと多くの人はこの本を読んで反発を覚えると思いますが、彼なりの正直なメッセージにはある種の好感が持てないでもないです。

どうでもいい話

ほんとにどうでもいい話なので、読まないほうがいいです。
今使っているカバンは入社すぐに買ったものなので、もうかなりボロボロ。新しいのがほしい…って、ほしいものが相変わらず多すぎて、もうダメ…。ちなみに買うならたぶんコレ。
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犬印鞄製作所のカバンを使っていた時期もありましたが、お弁当が入らないので結婚後はあまり使っていません。犬印のは高いんですよね。
ほしいものついでに、哲学系の蔵書を大幅に拡充したいです。昔は闇雲に揃えていましたが、今回はきちんとテーマを持って買いたい。倫理系の本を、古いところから買っていきますかね…。

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

センター試験

今日はセンター試験だったんですね。僕がセンター試験を受けたのはもう10年前(と9年前…)になるのかと思うと、そりゃ寂しくなるわけだ(頭が)…と納得。こんなブログを受験生が読むわけはないと思うんですが、当時の自分に言葉をかけられるなら、

  • 早く朝型の生活にすること
  • 英語は毎日勉強すること
  • 文3志望は考えなおしてもいいかもしれないこと

とでも伝えたいです。まあ、どうでもいいですね。
センター試験の記憶はほとんどないですが、試験会場が北海道工業大学というところで、非常に遠かったです。父の車で行ったような。雪深い日でした。ちなみに浪人のときは確か結果は700点に届かないくらいで、「一年間何してたんだ…」と思った記憶が。まあ、何してたんだってずっと二次試験の勉強してたんですが。
勉強すれば報われるというのは非常にわかりやすく楽な世界だったなあと気づいたのは、それから数年経ってからのことです。今となってはそもそも「報われる」ってどういう意味?というところから悩んでしまいますが。

難しい…何が?

生きるって難しいですね。簡単だとは思ったことはありませんが、難しいと思ったことは数知れず。今も現在進行形で難しいなと思っています。まあ単純に、無責任にペロペロしゃべっていればいい時代が終わったからなんでしょうけど、それってもう5年前とかそういう話なので、この5年くらい何やっていたんだと。
こういうことを考えるときによく思うのが、独我論者にとって世界はどう捉えられているのか、人生は難しいなんて思うことが彼らにはあるのか、ということです。永井均とか、独我論者がどういう理解をしているのかはなんとなくわからないでもないのですが(自分がいなければこの世の中は端的に無だ、いやむしろ「この世の中」という言い方自体が成立しない…というような)、じゃあ実際のところ世間にどう接しているのか、その腹の中がよくわからんです。
ってまあ、そんなことどうでもいいんですけど。僕は独我論者ではないし、そんなこと考えるより来月の給料を心配してしまいます。「20日になったら本当に給料出るのか? 明日会社に行って自分の席はあるのか? 『りかんくん、ちょっと』それは退職勧奨ではないのか!?」そんな風に毎日過ぎていきます(半分くらいうそです)。
でも最近悩みがちなのはほんとうです。

村上…?

村上、というと大抵の人は何を思い浮かべるんでしょうか。春樹か、龍か、隆という人もいるんでしょうか。僕はついつい村上春樹を思い浮かべてしまいますが、それはともかく、村上春樹村上龍って、デビューした時期も近いし苗字も一緒だから同じような作家だろうと思われたりしてるみたいです。が、なかなかに好対照なふたりだと思います。
簡単に言うと、春樹は世間に興味がなくて龍は超生真面目。どっちが好きかと言われれば、龍です。昔は圧倒的に春樹のほうが好きでしたし、よく読んでもいましたが、社会人になったあたりからは龍のほうをつい手にとってしまいます。龍の「ついつい真剣に考えてしまううえに読者に『本当』のことを伝えようとしてしまう」姿勢が、熱血漢っぽくて意外と好きです。彼らの違いは小説でもエッセイでもよく表れていて、興味ある方はぜひ読み比べてほしいです。何を読んでいいかわからないあなたに、おすすめを紹介します。今日はエッセイを。

無趣味のすすめ

無趣味のすすめ

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

龍は単行本で春樹が文庫なのは深い意味はありません。ただ、龍の『無趣味のすすめ』は単行本の装丁がとてもよいので、おすすめしておきます。

くるくるポン☆ミ

僕は昔から他人を罵倒するのが好きなんですが、我慢して今日は少しだけ。
世の中の大半の人間のことが嫌いな僕ですが、とりわけ嫌いなのは阿呆ないし馬鹿(以下くるくるポン)です。とはいえ、くるくるポンの定義も明らかにしないうちにこんなことを書かれても不快ですよね。僕が思うくるくるポンというのは、「自分が間違っている可能性を1%も想像しない人」です。知性的でない人(≒「〜かもしれない」という可能性を保持したまま考えられない人)と言い換えてもだいたい同じです。
しかもそういう人が大学を出ていたりします。何を勉強してきたんでしょうか。大学で勉強する最大にして最低限のことは、「世の中のことはよくわからん」という認識だと僕は思っています。よくわからんからみんないろいろ勉強したり研究したり実験したりするし、よくわからんけど自分なりに考えてその都度その都度決断をしてでもしばしば間違っているのでその責任を取って…ということの繰り返しだということがどうして理解できないのか、わかりません。「私はくるくるポンです」というお札を頭に貼って歩いているようなもんなんですが。
それにしてもおとなの社会というのは恐ろしいところで、誰も本当のことは言ってくれません。だからくるくるポンは自分がくるくるポンだということにきっと一生気づかないままなのです。ぞっとしますね。

なんじゃろなと経済学

昨日も書きましたが、中島義道を読んでいると「生きるってなんじゃろなー」と思います。別に読まなくても思いますが、読むと余計に。僕は彼とは違って頭脳明晰ではないので、だいたいぼんやり考えているとそのうちに眠たくなったり興味が別にうつったりするのでちっとも考えは深まりませんが。この手の考えが進むのは誰かと話しているときですかね。そういう意味で、めんどくさい話をできる人間というのは貴重です。
半年くらい前から、細々と経済学の本を読んだり読まなかったりしています。ようやく稲葉振一郎『経済学という教養』が読み終わりそうです。今まで一度もきちんと経済学(史)について勉強したことがなかったので、「ほええ経済学ってこういう論争・対立になっているのかあ」というのが新鮮です。新鮮じゃいけないんですけどね。恥ずかしくて顔をおおって歩きたいレベルです。不況の原因を流動性選好に求める説に「ほほお」と思ったり、マルクス主義の生き残り左翼がはまった罠について読みながら「そもそもマルクス主義って要約するとそういう考え方になるのか」と納得したり、教養の学生みたいな気分。
ちなみに今後は以下の三冊を通して読む予定です。

経済学という教養 (ちくま文庫)

経済学という教養 (ちくま文庫)

ライブ・経済学の歴史―“経済学の見取り図”をつくろう

ライブ・経済学の歴史―“経済学の見取り図”をつくろう

経済学とは何か

経済学とは何か