『十二夜』

六本木の俳優座で、シェイクスピア・シアター*1による『十二夜』を観てきた。翻訳は小田島雄志によるもの(十二夜 (白水Uブックス (22)))で、全体としてシンプルな演出で、小さな窓からささやかかつ幸せな世界を覗くような感じを受けた。全体として小田島訳のよさを活かしたつくりになっていたと思う。実に簡素な、というよりも一脚の椅子を除いて一つの舞台装置もない舞台で演じられることで、言葉と言葉との交錯をとことん前景化させる演出だった。

初めてシェイクスピア劇を実際に観たことになるが、改めて、というよりも初めて、「こんなにシェイクスピアは面白かったのか!」と思うことができた。文字で読むと平坦な言葉が、舞台の上で奥行きを与えられ空間の中に立ち現れると、ここまで活き活きとしたものになるのか、という驚き。ヒロインたるヴァイオラは、身分を隠し男装しているがゆえに主人の公爵に思いを伝えられずにいるが、そんな場面で半ば独白的に語られる、「それが女です、悲しいことにそれが女です、花の盛りと見えるときが、散りゆくときとおんなじです」というセリフなどは、誰に宛てたものなのか明確でない*2がゆえに、言葉が文字通り宙に浮いたかのような感覚を覚えた。

ただ、唯一かつ少なからず残念だったのは、何度か役者がセリフを噛んでいたこと。言葉で聴かせる演出だけに、劇全体への影響は大きかった。シェイクスピアの劇にはしばしば、「ここは舞台であり、これは芝居である」とあえて観客に暴露してしまいかねないセリフがあるが*3、それが可能なのは、劇世界がぴったりと隙間なく構成されなおかつ役者の言葉にも動きにも断面のない滑らかさがあって初めてのことだろうと思う。ゆえに、舞台からの不用意な水漏れとも言うべきミスがあったのは残念というほかない。

十二夜』という作品そのものに関して言えば、「道化」というものの立ち位置が二重性を帯びているように感じた。登場人物でありながら、全能の語り手としての一面を窺わせるような言葉を使う*4、というような。劇全体が綺麗に閉じているようでいて、どこか外への広がりを感じさせるのは、こんなところにも要因があるのかもしれない。

*1:友人が研究生として所属している。

*2:公爵には若者の戯言としか受け取られないだろうし、そうであろうことはヴァイオラにもわかっているはず。

*3:例えば、「こんなのが舞台で上演されたら、あんまりばかばかしい作り話だって文句をつけるところですよ(第三幕第四場)」など。

*4:男装しているヴァイオラに対する「おありがとうございます、神様のお恵みで髪だけでなく髭にも恵まれますよう」というセリフなど。