佐藤優『獄中記』

先日、東京に向かう航空機の中で佐藤優『獄中記』を読み返していた。初めて読んだのはいつだったか忘れた(おそらく2009年)が、これまで何度も読み直していて、そのたびに何かしら新しい発見がある。今回読んで初めて、岩波現代文庫版のあとがきにこう書かれていることに気がついた。

私とは、「私自身と私を取り巻く環境」であるが、本書『獄中記』が書かれたときの環境は、このようなものであった。(p.599、強調引用者)

この何気ない注釈めいた文章の意味が、ようやくわかったような気がする。

「今となって考えてみれば……」これが検察の切り口である。今となって考えてみれば問題があるならば、当時も問題を感じていたはずであるという形で違法性認識への道を作る。要するに物語を再編させるわけである。しかし、現在の視座で過去の物語を再編する権利は誰にもない。自らがコミットしたあの時代に対する責任を放棄することになる。一度、このような踏み越えをすると永遠に「物語」の再編に怯えなくてはならない。権力の圧力による自己の過去の再編を、インテリは受け入れるべきではない。(p.152)

野暮ったい解説をする必要はないと思うが、彼が「『物語』の再編に怯えなくてはならない」と言っているのは、過去を自分に都合よく捉えることを始めたが最後、過去と正対できなくなるという意味であろう。過去に自分を取り巻いていた環境と、そのときの思考や行動は不可分である。「今となって考えてみれば…」という言い方は、「今」自分を取り巻く環境があって生まれる言葉であり、今の環境を過去の行動の評価に組み入れるべきではないのだ。自分にとって都合の悪い「過去」から目をそらす癖がついてしまうと、過去の自分と向き合うことはもちろん、周囲の人間と向き合うことも難しくなる。

佐藤は別のところで

「馬鹿」とは知性や能力の問題ではなく、誠意、良心の問題であるということは新たな発見でした。(p.280)

と書いているが、要するに「過去の物語を再編」する人間は「馬鹿」であるということであろう。

もっとも、大森荘蔵ではないが、過去は今の自分の頭の中にしか存在しないのであり、過去を想起する自分は常に今の環境に取り巻かれているのであるから、過去を想起するということはどうしたって再編を伴う。カメラをどこかに固定しない限り撮影できないのと同じだ。当然佐藤もそんなことは理解していて、だからこそ「良心の問題」ということになってしまう。

獄中記 (岩波現代文庫)

獄中記 (岩波現代文庫)

おまけ

この本には「外務省の後輩へのメッセージ」が多く含まれており、僕を含めた若い人間には勉強になることばかり書かれている。それなりに厚い本ではあるが、その部分だけでも拾い読みしてみると、何かしら得るものはあると確信する。