むかしといま(前編)

たまには真剣にブログでも書こうかなあと思ってはや数週間。試しに少し書いてみますか。ほしいものとか、身近な道具なんかについて書くのは簡単なのに、抽象的なテーマについて書くのがこんなに億劫になるとは、もうダメかもしれない。

と書いたところで、また手が止まった。ひょっとして、今の自分にとっては「書く」ということがもはや切実なことではなくなった、ということなのではないか。昔、と言っても大学生の頃だが、何かを文章で表現するということがそのまま日々生きるということにつながっていたような時期があった。書いては消し、書いては消し、それを繰り返すことによって何かを表現した気になり、そのことがそのまま自分と社会との接点なんだと思っていた時期。

もちろん、今となってはそれが社会との接点でも何でもないということを、恥を隠さず認めることができる。そうではなく、逆だったんだなあと思う。当時の自分はただひたすらに、外と関わること、特に、外から評価されることが恐ろしかった。だから、文章によって「武装している」風を装っていた(その頃はもちろん、「風を装っていた」意識なんかまったくないわけだけど)。

そんな過去を振り返るに、今と何が違うんだろうか。昔の自分にあって、今の自分にないもの。または、昔の自分にはあって、今の自分にないもの。まあ、たくさんあるよね。当時は大学生という名の無職だったわけだし、それでいて東大生というブランドがあった(東大がブランドなのかどうかはともかく、自分にとっては確かに何かの価値をもたらしてくれるものだった)。本を読む時間もあったし、自分の意志を明らかにしない自由もあった(なんてったって、大学生というのは自分の時間を授業料という金で買っている身分なのだから)。

でも、重要なのはそういうことじゃないんだろうなと思う。こういう結論を導くとつまらなくてみんな読んでくれなくなるんじゃないかと思うけれども、事実だろうから書く。それは要するに、結婚したからだと思う。それも、自分にとって特別な意味(価値と言い換えてもいい)を持つ人と結婚したからなんだろうなあ、と。「それってどういうこと?」という質問に答えるにはちょっとまだ僕は力不足なんだけれど、無理やり端的に表現すると、「自分という人間の欠損を埋めてくれる」ということなんではないのかなあ。

ここで大事なのは、「自分にないものを持っている」というのとはちょっと違うということ(ちょっと違う、であってまったく違う、ではないんだけど。ややこしい)。もしそうなら、「英語とロシア語のバイリンガル」とか、「プロのソフトボール選手」とかでもその条件に当てはまってしまう。そうではなくて、先に書いた「欠損」というのは、「あってしかるべきものなのに、自分には(なぜか、あるいは何らかの理由で)なくなってしまったもの」という意味である(だからそれって何なの、と聞く御仁がいるかもしれないが、それ以上は野暮というものですよ)。つまらない結論になってしまって申し訳ないのだが、まあ要するにそんなところだと思う。

で、話がちょっと逸れてしまった。なぜ、結婚したことが自分を大きく変えたのか、という問いに答えなければならないのだった。しかしちょっと長くなってしまったので、その話は次回。