生きている価値

自分が生きている価値とは何なのか、とたまに思わないではない。もう少し誤解のないように言うと、昔はよくそう思って悶々としていたが、最近はあまり思わなくなった。生きている価値も何も、とりあえず現にこうやって生きているのであるから、仕方ないではないか。
ただその一方で、社会における自分の価値とは何なのか、という風にはよく思うようになった。社会というのは友人を含む人間関係であったり、会社であったりする。僕はそれらの環境の中で、何かを周囲に提供できているのだろうか、とよく自問する。
僕はそこそこに友人づきあいをしている方だと思うが、その実、内心とても怯えている。「この人にとって、僕のために時間を割くということが意味のあることだと思ってもらえるだろうか?」という問いが頭の中をぐるぐるする。だからいつも、相手には何かプラスになるようなもの(わかりやすいのは、ちょっとした知識だとか、ちょっとした考え方だとか)を用意しておく。とりあえずそれを提供することで、自分の意義を自分に納得させ、安心感(または、罪悪感の緩和)が得られるのではないか、なんていうさもしい論理が働いている。
ここに、僕が勉強好きである理由の一つがあるような気がする。誰かに提供することを前提とした、知識の吸収。
そう考えると少しむなしくなりそうな気がするが、他にも勉強をする理由というのは当然ある。僕にとって勉強することは、自分を相対化することでもある。自分を世界のどこに配置すればいいのか、それを判断するために、あれこれ僕は知ろうとするのだろう。
というような話を会社の部長にしたら、ものすごく困惑させてしまった気がする。